子どもの頃から英語教育しないとダメかな?
議論が出来なきゃ喋れても意味がない
こんにちは。tetsuya(@tetsuya_blulog)です。
日本において、英語教育の必要性はどんどん下がっていると言えます。
相変わらず小学校から英語を習わせたり、就学前から英語教室に通わせたりする人は多いですが、順番が違うのでは?
この記事では「英語教育をしても議論の教育が出来なきゃ意味がないよ」という話をします。
子どもの教育について、今からの時代に適合した考えにアップデートしていきましょう。
- 英語教育がこれ以上不要な理由
- なぜ日本人は英語をしゃべれないのか
- 英語より議論教育が重要な理由
目次
英語教育は不要だと思う理由
ぶっちゃけ日本において、英語教育はこれ以上増やさなくて良いでしょう。
もちろんゼロにしろとは言いませんが、少なくとも現状で十分です。
その理由についてこの記事で書いていくわけですが、まず一番大きいのはコレ
翻訳機能の進化が止まらない
こちらの記事をご覧ください。
Googleは1月28日(現地時間)、サンフランシスコでメディア向けの発表会を開催し、その中でGoogle翻訳の新機能を披露しました。
新機能は、スマートフォンのマイクから入力した音声をリアルタイムに書き起こし、それを他の言語に翻訳するというもの。リアルタイムに翻訳する機能はGoogleアシスタントの通訳モードなどでもすでに実装されていますが、これは会話などの短い文章を翻訳するもの。これに対して新機能は、長文でもリアルタイムの翻訳が可能です。
https://japanese.engadget.com/jp-2020-01-29-google.html
スマホに向かってしゃべった言葉を自動的に文字起こしし、さらにそれを外国語に翻訳する。
今までは短文のみでしたが、長文のリアルタイム翻訳も可能になるそうです。
今後ますます翻訳機能は進化していくことが確実であり、正直言って若いうちの貴重な時間を大量に浪費して外国語を学ぶことが割に合わなくなってきていると感じます。
日常的に使う母国語にプラスして、自然に外国語と触れ合うような環境にいるのならそれが一番言いのかも。
日本人が英語をしゃべれない理由
欧米人が日本に旅行に来ると、日本人のあまりの英語能力の低さにびっくりすると言われています。
中学校から学校で英語教育をしていて、最近では小学校から始めているのに、なぜ日本人は英語を喋れるようにならないのか?
その理由として考えられるのは、以下の2つです。
- しゃべる必要が無いから
- 英語で外国人に伝えたいことが無いから
しゃべる必要が無いから
日本にいる以上、英語を喋る必要がないというのが一番の理由でしょう。
未だに日本は世界有数の経済大国で、日本国内で就職すれば日本語だけでやり取りが出来ます。
大学教育においても、ノーベル賞受賞者を数多く排出しており、世界最先端の文献を母国語で読める。
こういう環境にいる以上、外国語を習得する必要性がない。
だから英語を習得するモチベーションが上がらない。
モチベーションの3要素で言えば「目標の魅力」と「危機感」が著しく低い状態です。
うちの父親も、学生時代はからっきしだったそうですが、就職して外国に出張に行くようになってから英語を勉強してペラペラ喋れるようになりました。
つまり、日本人は英語が苦手なのではありません。
日本人であっても、必要に迫られた人はすぐに英語を習得できます。
ならば、英語の必要性がいまいち理解出来ていない学生時代には、今と同じ様に基礎学習だけやっとけばOKなのです。
英語で外国人に伝えたいことが無いから
これが本記事で一番伝えたいことでもあるのですが、英語の「必要性」と関連して、英語を覚えてまで外国人に伝えたいことが無い。
外国人とコミュニケーションしたいと思っていないのも大きな理由だと考えます。
日本が世界の先進国に躍り出て以来、さまざまな意味で外国から注目され、意見や批判を浴びせられることもあります。
これに対し、日本人のひとりひとりが「反論してやりたい」と思わない。
反論するにしても、日本人同士のSNSに勇ましいことを書き込んで満足してしまう。
こういう「内向き」な思考も、英語教育に対するモチベーションの低さと関係していると言えます。
外国人とやり合うには英語より議論の能力が重要
外国人に対して何かを伝えたい、外国からの日本批判に言い返してやりたい。
- 従軍慰安婦問題
- 捕鯨・イルカ漁問題
- 環境問題
- 安全保障問題
例えばこれらの社会問題に対して極めて関心が低い、外国から文句を言われても他人事として冷笑するだけ。
だから、わざわざ英語を覚えてまで外国人とコミュニケーションしようと思わない。
こういう人は、英語を喋れても議論は出来ません。
英語教育の前に必要なのは、社会問題に対して自分の意見を持ち、それを相手に伝える「議論」の教育です。
先述のように翻訳技術は日進月歩で進歩しているし、私の経験から言っても「伝えたい!」という熱意があれば言語の違いは克服出来るからです。
日本的「個人の自由」が議論の機会を奪う
日本人が「議論」を苦手とする理由は、日本的な「個人の自由」教育にあると言えます。
- A君「僕は◯◯が良いと思います。」
- B君「僕は△△が良いと思います。」
- 先生「個人の自由だからね。みんな違ってみんな良いね。」
日本人の議論って、これで終わっちゃうんですよ。
意見の対立が起きても、「個人の自由」というキラーワードを出されたら、そこで終了なんです。
これで議論など出来るはずがありません。
議論とは「みんな違ってみんな良い中でも一つの答えを出す」事です。
- A君「僕は◯◯が良いと思います」
- B君「僕は△△が良いと思うから、お互い納得行くまで話し合って答えを決めよう」
日本の教育には、これが圧倒的に足りていない。
重視すべきは、まず日本語でまともな議論ができるようになる教育です。
英語教育より議論の教育を増やそう
- 英語は翻訳技術の進化で勉強する必要がなくなる
- 英語が喋れても議論が出来なければコミュニケーションは出来ない
- 必要なのは英語教育より議論の教育
日本人は議論が苦手です。
自分の意見をもって相手の意見と戦わせることを避けることを良しとしてきました。
そういう人が英語だけ喋れるようになっても意味がない。
逆に言うと、自分の考えを主張できる人なら、言語の違いは問題にならない。
英語教育に重きをおく現在の方針は、「順番を間違えている」と思わざるを得ないですね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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