
そもそも違いって何?
こんにちは。tetsuya(@tetsuya_blulog)です。
今回は「性善説」と「性悪説」についてのお話です。
人間の善悪について、しばしば語られる2つの説ですが、実は「性善説と性悪説の違い」ってよく分かっていない人のための解説。
そして、「実はどちらも同じことを言っている」という事をこの記事でわかりやすく解説します!
その上でどちらに重きを置くかはあなた次第。
まずは正しく理解してくださいね!
目次
性善説と性悪説の違い
性善説と性悪説の違いについて、最初に説明しておきます。
どちらも紀元前4~3世紀頃、春秋時代の中国で生まれた思想家である孟子と荀子によって唱えられた説です。
- 性善説:孟子(もうし)
- 性悪説:荀子(じゅんし)
現代の日本でも度々議論に上がるこの2つの説ですが、実は本来の意味とはかけ離れて使われていることも。
オリジナルの主張はどのようなものだったかをしっかり理解し、誤解の内容にしておきましょう。
孟子の性善説について
孟子の性善説は、人の生まれながらの性を「善」とする説。
- 仁(思いやり)
- 義(善悪の判断)
- 礼(品性)
- 智(知性)
この四端の萌芽がすべての人には生まれながらに備わっており、学問の修練によってさらに磨くことが出来るという考え方です。

なぜ人には皆人に忍びざるの心があるのかと言うと、今仮に幼児が井戸に落ちようとするのを見れば、誰でもはっと驚き深く憐れむ気持ちが起こって助けようとする。
それは子供を救ったのを芋づるに、その両親に交際を求めようとするからでもなく、村人に褒めてもらおうとするからでもなく、見殺しにしたら悪口を言われて困るというので救うのではない。利害得失を考えた結果ではなく、反射的にすることだ。
人が困っているのを見過ごせない「忍びざるの心」は本来誰もが持っているものですが、それを実際に実行出来るかは別の問題。
実行できる人になるためには学問をして自分の徳を高める修練が必要であり、そのために孟子は学問の道を生きたのです。
荀子の性悪説について
荀子の性悪説は、人の生まれながらの性を「悪」とする説。
ただし、ここで言う「悪」とは「弱さ」の事であり、犯罪や非道のことではありません。
しかし、犯罪や非道を犯す人は心に「弱さ」を抱えているものであり、両者は密接に関係しています。

生まれながらにして憎悪の心がある。
この本性に従うがために、人を損ない傷つけることが生じ、誠意や信義がなくなってしまう。生まれながらにして聞きたい見たいという欲求があり、美しい音楽や女性を好むというところがある。
この本性に従うがために、節度のない行いが生じて、礼儀や物事の秩序がなくなってしまう。そのために人の本性に従い、人の感情におもむくままに行動をすると、必ず争奪が起こり、文理が犯されて、秩序が乱れた状態になってしまう。
荀子は、人は本来「欲望」のままに生きる動物と同じであり、人が欲望を抑えられないことで様々な争いが生まれていると説きます。
だからこそ、人は学問をして「善」を身に付け無ければならないと考えたのです。
本来は欲望的動物である人間ですが、学問によって後天的に善を身に付け礼を正す事ができる。
荀子もまた、学問の重要性を説いているわけですね。
実はどっちも同じことを言ってる?
性善説と性悪説を詳しく見てみると、「実はどっちも同じことを言っている」事に気が付きます。
つまりこういう事。
人が善を身につけるには学問が重要である


結局のところ、性善説の孟子であっても「人は何もしなくても善の存在である」とは一言も言っておらず、その善を磨くために常に学問をしなくてはならないと説いています。
性善説というと、純粋に人を信じる「お人好し」のように思われることもありますが、実は逆。

孟子はこのようにも述べており、実は「悪」に対する態度は性悪説よりも厳しいとすら言えますね。
性善説でも性悪説でも学問が大事
性善説でも性悪説でも学問が大事という事はわかりました。

これは、どんな学問でも良いと思います。
どんな分野であれ、本当にその学問を極めたような人は、やはり人格者であり善の人であるように思われるからです。
ただし、その領域に達するには生半可なレベルではありません。
江戸時代の学者・三浦梅園は学問を野菜に例えてこのように言っています。
青菜は、その青臭さをとるために何度も茹でなくてはならない。
少ししか読書をしない者は少し学者臭く、大いに読書している者はさらに学者臭く、どちらも同じ様に困りものである。
この真意は、知識というものは学ぶものが心に同化させ、その人の品性に現れてはじめて真の知識となるという事。
単に知識が多いだけの専門家は機械と変わりません。
知識が品性を表すまで学問をすることが「善」への道だと言うことですね。
性善説と性悪説どっちを信じようと向上心が重要
- 性善説は人が持っている善の萌芽を学問で磨くこと
- 性悪説は人が持っている悪の性を学問で克服すること
- どちらも学問によって善が成るという意味で同じ
性善説と性悪説に関する個人的意見は、「どちらが正しい」という事ではなく「どちらも正しい」というのが正直な感想。
人の心は複雑で様々な面を持っており、なかなか「こう!」と言い切れないものです。
ただそれでも、「善をなすには学問が重要」という両者の主張は誰もが認めざるを得ないところ。
常に向上心を持って学問をなし、善の人になりたいものですね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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