高千穂神社から西都原へ

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ニニギノミコトと、その妻コノハナサクヤを祀る高千穂神社です。
天孫降臨を大陸からの渡来民と考えると、渡来人のニニギノミコトは土着民の長だったオオヤマツミの娘コノハナサクヤと結婚したことになります。
渡来民と原住民の融合によって、「日本人」の原祖となったのです。

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高天原からやってくるニニギノミコト一行の先頭に立ったアメノウズメと、その道案内をしたサルタヒコを祀る荒立神社です。
後にこの二人は結婚し、渡来人と原住民の結婚はここでも行われています。

ちなみに「荒立」とは、二人の結婚が急であったために急いで建てられたことに由来しているとか。

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高千穂神社の神楽殿で行われる「高千穂神楽」

古事記を考古学的な視点で見ると、天つ神は大陸からの渡来人、国つ神は日本の原住民と考えられます。

化石研究の成果により、縄文人は堀の深い“濃ゆい顔”で、弥生時代以降に凹凸の少ない“のっぺり顔”が急激に増えているとか。

高千穂神楽では、高天原からやってくる天つ神のアメノウズメが”おかめ”の仮面
それを迎える国つ神のサルタヒコは”天狗”の仮面を付けています。

コレはまさに”のっぺり顔”と”濃ゆい顔”
古来から伝わる伝統芸能にも、神話と歴史との一致を見て取れます。

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後に神武天皇となる神日本磐余彦尊と、その3人の兄弟が生まれた場所とされる四皇子峰です。
神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコノミコト)は、東征によって西日本を征服し、紀元前660年に奈良の橿原で即位して神武天皇となります。
神武天皇は、東征の過程で征服した土地に稲作を広めた記録が残っており、古代人からすれば「食い物をくれる人=神様」という発想はあり得る話で、こうしてニニギノミコトとその子孫である天皇は“食”によって人々の心を掴んでいったものと考えられています。

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高千穂を離れて宮崎県中部の西都市へ

ニニギノミコトの妻であるコノハナサクヤを祀る西都市の「都萬(つま)神社」です。
この地には”妻”という地名もあり、コノハナサクヤ縁の地であることがわかります。
コノハナサクヤの父のオオヤマツミは、この地方の豪族であったと考えられており、その娘と結婚したことでニニギノミコトはこの地方の支配権を得たということです。

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西都市に残る「無戸室(むとむろ)」の跡。

ニニギノミコトとコノハナサクヤは、一夜の契を交わしただけでコノハナサクヤが妊娠しました。
ニニギノミコトはそれを信じず、、自分の子ではないと疑いをかけますが、コノハナサクヤは身の潔白を証明するために、戸のない小屋を建てその中に入って「もしこの子が神の御子なら、何があっても無事で生まれてくるでしょう」と言って小屋に火をかけ、燃え盛る小屋の中で出産したとのこと。
奇跡的に、母も子供も全員無事だったという事ですが、この壮絶なエピソードは、渡来民と原住民との“国際結婚”における様々な障害を表しているように思えます。

その時に生まれたのがホオリノミコト(山幸彦)、ホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコトです。

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西都原考古博物館の屋上から見渡した風景。

西都原古墳群は日本最大級の古墳密集地帯で、東西2.6km、南北4.2kmの範囲に300以上の古墳が密集しており、その肥沃な土壌は現在では広大な田園地帯となっています。

『社会契約論』で有名なジャン・ジャック・ルソーによれば、「土地を所有する」という概念は、農業の発達とともに生まれたもの。

このこの肥沃で広大な土地を支配したことで、天孫族は“国家”としての支配体制を確立していったものと考えられれています。

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