宮崎神宮と神武東征の起源

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宮崎神話紀行・最終日は宮崎市内の史跡を周りました。

そもそも「宮崎」という地名は、神武天皇の「お宮」があったことに由来すると言われています。
神武天皇を祀る宮崎神宮の周辺からは弥生遺跡も多数出土しており、この地が古代天孫族の居城であった可能性が高いと考えられています。

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「国産みの神」であるイザナミは、国産みの最後に産んだ火の神に身体を焼かれて死にました。
残されたイザナギは、亡き妻を追って黄泉の国まで行きますが、女は既に見てはいけない姿となっており、醜態を見られたイザナミは怒ってイザナギを追い返します。

黄泉の国から帰ったイザナギは「筑紫の日向の小戸の橘の阿波岐原」で禊をして体を清め、その時にアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子が生まれた。
それがここ、宮崎市「阿波岐原森林公園」の、みそぎ池だということです。
つまり、ここは天照大神生誕の地ということ。

事実、この周囲では宮崎地方でもかなり古い年代の弥生遺跡が出土しており、「ニニギ以前」の農耕民の勢力があったことを伺わせます。

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昭和の陸軍大将・杉山元によって建立された「皇軍発祥の地」の石碑です。

神日本磐余彦尊は「どこに住んだら、この世界を平和に治められるのか?」を考えた末、東に向かうことを決めて東征に討って出ます。
東へ向かうとは、日の出る方向に向かうということ。
よって、この地は「日向」と呼ばれるようになったのです。

日の出る方へ向かって旅立つ、天皇に率いられた皇軍の発祥。
それが”神武東征”の始まりであり、最終的に奈良の橿原までたどり着いた神日本磐余彦尊は神武天皇となって大和王朝が誕生します。

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宮崎市内の平和台公園に建てられた平和の塔です。
「八紘一宇」とは8つの方角、即ち全世界が一つの屋根の下で家族のように暮らすということ。

ニッコロ・マキャベリは、その主著『君主論』の中で宗教的神聖性に基づく君主政体について「政権を持ちながらそれを防衛せず、臣民を持ちながらそれを統治しない。政権は無防備でも奪われることがなく、臣民は統治されていなくてもそれを気にかけず、君主から離反しようと考えないし、できるはずもない。従ってこういう君主政体だけが安全であり、かつ幸せなのである。」と述べています。

『八紘一宇』は、戦前には軍国主義のスローガンに利用されたネガティブなイメージがありますが、本来は、天皇の道義による平和と調和を達成するための日本の建国精神そのものなのです。

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